ストリップにおける「共犯」の責任

1.はじめに

 前回の記事では、踊り子の演技に公然わいせつ罪の成立を認める判例・通説のロジックについて検討を加えた。もっとも、摘発の対象には、演技を行う踊り子だけでなく、その「共犯」とされる劇場の興行主やスタッフも含まれる。さらに、驚くべきことに、近時の報道によれば、観客の中からも公然わいせつ罪の「共犯」の容疑で、逮捕者が出ているようである*1

 そこで、今回は、ストリップにおける「共犯」成立のロジックとその限界について、劇場関係者と観客とに区別してそれぞれ検討を加える。

2.劇場関係者について

(1)「共同正犯」と「従犯(幇助犯)」の区別

 判例・通説は、劇場の興行主やスタッフについて、公然わいせつ罪の「共犯」、より具体的には「共同正犯」「従犯(幇助犯)」が成立することを認めている。この「共同正犯」と「従犯」とは何が違うのだろうか。日本の刑法は、以下のように規定している。

刑法60条 二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする。

刑法62条1項 正犯を幇助した者は、従犯とする。

刑法63条 従犯の刑は、正犯の刑を減軽する。

 ごく大雑把な言い方をすれば、犯罪を一緒にやった場合が「共同正犯」(刑法60条)であり、他人(正犯)の犯罪を手伝ったにすぎない場合 が「従犯」(同法62条1項)ということになる。

 ここで気に留めておく必要があるのは、両者で刑の重さに違いが生じるということである。すなわち、「従犯」の場合には、「正犯」の刑が減軽され(同法63条)、その結果、懲役刑についてはその期間が、罰金刑についてはその額が「半分」にまで減らされるのである(同法68条3号、4号参照)。

刑法174条(公然わいせつ罪) 公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは15万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。

 太字の部分(「法定刑」という。)を見てほしい。「(共同)正犯」とされた場合には、この範囲内で裁判所により刑量が定められる。これに対して「従犯」とされた場合は、この「半分」、すなわち、懲役刑が選択される場合には「3月以下」、罰金刑が選択される場合には「15万円以下」の範囲内で、刑量が定められることになるのである*2

 このように、同じ「共犯」であっても、「共同正犯」となるか「従犯」となるかは、当事者にとり重要な問題といえる。このことから、両者をどういう基準で区別するかを明確化する必要が生じる。

 かつての通説は、刑法60条が「二人以上共同して犯罪を実行した者」と規定していることに着目し、実行行為を分担するいわば「実行犯」にしか「共同正犯」が成立しえないとしていた*3。この理解によれば、劇場の興行主やスタッフは自身で「公然とわいせつな行為」を実行するわけではない(実行するのは「踊り子」である)ため、「共同正犯」が成立することはなく、せいぜい幇助者、つまり「従犯」としての責任のみが成立することになる。

 しかし、こうした見解はすでに過去の遺物とされている。なぜなら、実行担当者以外の者であっても、犯行計画段階で強い影響力を行使することで、犯罪全体の遂行に大きく寄与することは十分に考えられ(いわゆる「黒幕」や「首謀者」)、そのような者が、実行を分担していないという理由だけで、「従犯」として軽く処罰されることは不当であると考えられたためである*4

 そこで、現在の支配的な見解は、形式的な「実行行為」の分担の有無ではなく、より実質的に見て「犯罪の遂行に重要な役割を果たしたか否か」を基準に「共同正犯」と「従犯」を区別すべきであるとしている*5

(2)興行主・劇場責任者

 この支配的な見解の基準に従えば、興行主や劇場責任者には、原則として公然わいせつ罪の「共同正犯」の成立が認められることになろう。彼らは公然わいせつ罪の実行行為を分担するわけではないが、事前に踊り子との間で出演契約を締結するとともに、劇場を提供しており、公演の実施に対して「重要な役割」を果たしていると評価することが可能だからである*6

 判例も、興行主である被告人が、あらかじめ踊り子の演技内容がわいせつな行為に当たることを熟知した上で劇場に出演させた事案*7や、劇場の支配人代理をしていた被告人が、ストリッパーとの間で、いわゆる「特出し」*8の契約をした上、自己の劇場で同ストリッパーに陰部を露出させて踊らせた事案*9において、被告人に公然わいせつ罪の共同正犯の成立を認めている*10

 これに対して、興行界の慣例によれば、劇場責任者や興行主は、上演される演技の内容について踊り子に口出しができず、最終的には踊り子や振付師が演技の内容を決定するのだから、わいせつな演技の実施に「重要な役割」を果たしていると評価できないのではないか、との反論もありうる*11。しかし、演技の内容を予め熟知しながら出演契約を締結し、踊り子に劇場を提供している以上、このような興行界の慣例の存在は「重要な役割」の認定の障害とはならないであろう。

 裏を返せば、劇場責任者等であっても、事前に演技の内容を熟知しておらず、劇場を提供した後にたまたま演技の内容にわいせつな行為が含まれることを知るに至ったにすぎない場合は、「従犯」にランクダウンすることが考えられる。この場合、さらに踊り子に対して演技内容の修正や差替えを強硬に要求したり、劇場の提供を拒絶すれば、(もはや犯罪を「幇助」したといえないため)「従犯」の成立さえも否定され、不可罰となるであろう。他方で、この程度の拒絶には至らず、ただ「微温的な警告」を発するだけで、劇場の提供を継続する場合には、なお「従犯」として処罰されるというのが判例*12である。

(3)劇場スタッフ

 劇場スタッフについては、一概に論じることは困難であるが、興行主や劇場責任者と比較すれば、その影響力は相対的に軽微であり、「従犯」にランクダウンする場合が多いものと思われる。

 例えば、最判昭56年7月17日刑集35巻5号563頁は、舞台上で演じられたショーに照明を当てた照明係である被告人に幇助犯を認定している。被告人の関与が照明を当てることに尽きていたとすれば、犯罪の遂行に「重要な役割」を果たしたとまでは評価できず、幇助犯の限度で責任を認めた判断は妥当なものといえよう。

 もっとも、この「照明係」についていえば、そもそもわいせつ行為を「幇助」したと評価できるのか、疑問がないわけではない。確かに、判例・通説のロジックによれば、「陰部の露出」こそが「わいせつ」性の中核にあり、照明を当てることで、陰部の視認を容易にした点が、わいせつ行為の「幇助」に該当すると考える余地はある。しかし、陰部を見やすくするためだけであれば、最初から劇場内に明るい電灯を付けておけばよいだけのことである。

 照明係の存在意義は、そのような点に存在するのではなく、むしろショー全体の芸術性を高めるためにあると見るべきではないだろうか。このような見方が正しいとすれば、「照明係」は、わいせつ性を妨げる方向に貢献しているのであり、わいせつ行為を「幇助」しているという評価は成立しないことになる。なかなか苦しい論理かもしれないが、読者の皆さんはどのように考えるだろうか。

3.観客について

(1)「立法者の意思」?

 他方で、通説によれば、ストリップ・ショーの観客は、原則として「共犯」にはならないとされる。また、公刊の判例集を見る限り、観客に「共犯」の成立を肯定した判例も存在しないようである*13

 その理由を通説は、本罪が「片面的対抗犯」である点に求めている*14。難解な用語だが、これは要するに、ストリップ・ショーでは観客の関与が当然に予想されているのに、演技を見せる行為についてしか処罰規定が置かれていないということは、立法者は観客を処罰するつもりがなかったはずである、とする考え方である。そして、それにもかかわらず、観客に「共犯」の成立を認めてこれを処罰することは、「立法者の意思」に反することであり、許されないと考えるのである*15

 しかし、こうした考え方は的外れであるように思われる。なぜなら、そもそも刑法制定当時(1907年)に、まだ日本ではストリップ・ショーが行われておらず*16、立法者はストリップの存在を想像すらしていなかった可能性が高いからである*17。立法者が想像すらしていないものについて、「立法者の意思」を問うことは不可能であろう。

  むしろ、観客に「共犯」が成立しないことの根拠は、個々の観客の関与(具体的には、「入場料の支払」や「演技の鑑賞」行為)が、その日の踊り子の演技の実施に対して、「共犯」といえるだけの物理的・心理的影響を与えない点に求めるべきではないだろうか。確かに、観客の応援は踊り子を勇気づける効果(精神的な促進作用)を持つかもしれないが、その1人1人の影響はやはり僅かなものである。単なる観客が、仮に劇場に行かなかったとしても、その日の公演は何の支障もなく行われるであろう。そうだとすれば、個々の観客は、共同正犯といえるだけの「重要な役割」を果たしていないことはもちろん、「幇助」者とすらも評価できないと考えられる。

 (2)「写真撮影=共犯」?

 いずれにせよ、踊り子の演技を公然わいせつ罪の実行行為と解する限り、観客に「共犯」の成立を認めることはできない。このことは、写真撮影をした観客についても同様であると考えられる。

 確かに、写真撮影をした場合には、撮影代金の分だけ、通常の観客よりも多くの料金を支払っている。しかし、1枚500円の写真を何枚か撮影したところで、代金はせいぜい数千円程度であり、それだけで「共犯」といえるだけの影響の存在を認めることは困難であろう。先ほど述べたことに即していえば、その何枚かの写真撮影があろうとなかろうと、「その日の公演は何の支障もなく行われる」のである。

 以上のことから、写真撮影をした観客にのみ「共犯」の成立を肯定することは、写真撮影行為それ自体に「わいせつ」性を認める構成でも採用しない限り、理論上説明できないように思われる*18

4.おわりに

 今回は、ストリップにおける「共犯」成立のロジックとその限界について検討を加えた。最後に、今回の検討の結果をまとめておこう。

 「共犯」の中には、「共同正犯」と「従犯(幇助犯)」という異なる関与形態が含まれるが*19、両者は、「犯罪の遂行に重要な役割を果たしたか否か」により区別される。そして、興行主や劇場責任者は、出演契約や劇場の提供を通じて、公演の実施に欠かせない重要な役割を果たすことから、原則として「共同正犯」の成立が肯定される。他方で、劇場スタッフについては、興行主や劇場責任者と比較して関与の程度は相対的に低いと考えられるため、「従犯」となる場合も多いと考えられる。

 これに対して、観客については、原則として「共犯」にならないと考えられる。その理由として、通説は「立法者の意思」を持ち出しているが、私見によればこれは的外れである。むしろ、個々の観客の関与が、踊り子の演技の実施に対して「共犯」といえるだけの影響を与えない点に、「共犯」不成立の根拠を求めるべきである。

 無論、以上の検討は、踊り子の演技に「公然わいせつ罪」が成立するという判例・通説のロジックを前提としたものである。次回以降、詳しく検討するが、仮に踊り子の演技に同罪が成立しないと考えた場合、劇場関係者や観客に「共犯」としての刑事責任がおよそ成立しないことは、当然である。

*1:東洋ショー劇場の摘発において、ダンサーを写真撮影した公然わいせつ幇助の疑いで、客10人が逮捕されたとの報道がなされている(https://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/53099/)。

*2:読者の便宜のため、本文では「下限」と「拘留」、「科料」についての説明を省略した。懲役刑の「下限」は「1月」とされ(刑法12条1項)、罰金刑の「下限」は「1万円」とされている(同法15条)ことから、減軽により、下限はそれぞれ「15日以上」、「5000円以上」となる。また、「拘留」とは「1日以上30日未満」の刑事施設への拘置のことを指し(同法16条)、減軽により長期の二分の一が減じられることから(同法68条5号)「1日以上15日未満」となる。最後に、「科料」とは「1000円以上1万円未満」の財産刑のことを指し(同法17条)、減軽により多額の二分の一が減じられることから(同法68条6号)「1000円以上5000円未満」となる。

*3:いわゆる「共謀共同正犯否定論」と呼ばれる立場である。近時の共謀共同正犯否定論として、浅田和茂『刑法総論〔補訂版〕』(2007年)418頁、松宮孝明『刑法総論講義〔第4版〕』(2014年)275頁、曽根威彦『刑法原論』(2016年)565頁以下等。

*4:こうした「黒幕」処罰の要請に基づき、判例は古くから共謀共同正犯肯定論に立ち(大判大正11年4月18日刑集1巻233頁、大判昭和6年11月9日刑集10巻568頁等)、これに追随する形で、学界でも共謀共同正犯肯定論が通説化した。

*5:司法研修所編『難解な法律概念と裁判員裁判』(2007年)57頁も、正犯と従犯の区別に関する裁判員への分かりやすい説明方法の一例として、「自己の犯罪を犯したといえる程度に、その遂行に重要な役割を果たしたかどうか」を判断対象とする説明を提示する。なお、ここでいう「重要な役割」という概念の内容につき明晰な検討を加えるものとして、島田聡一郎「共謀共同正犯論の現状と課題」『理論刑法学の探究③』(2010年)60頁以下。

*6:東京高判昭和32年4月12日東高刑時報8巻4号87頁も、「わいせつ行為自体をなさない者といえども、わいせつ行為をなす者と互いに意思を連絡させて、これを公然になす場合には、本罪の構成要件である公然の状態をつくる点において共同加功が存するが故にわいせつ行為者とともに共同正犯の責任を免れ得ない」とする。本判決については、正犯性の基礎づけを「公然」という構成要件的状況との関係で試みている点が注目に値する。

*7:福岡高判昭和27年8月30日高集5巻8号1398頁。

*8:要するに「ご開帳」のことである。ご開帳 (ストリップ) - Wikipedia

*9:名古屋高判昭和40年2月28日高検速報349号

*10:なお、学説の中には、劇場でわいせつな映画を鑑賞させることが重いわいせつ物公然陳列罪(刑法175条1項)となるのに、劇場で生のわいせつな行為を観覧させることが公然わいせつ罪の共犯にとどまるのは不均衡であるとして、興行主にわいせつ物公然陳列罪の成立を認めるものも存在する(江家義男『刑法各論〔増補第1版〕』(1963年)173頁。さらに、踊り子の演技にも公然陳列罪の成立を認めるものとして、植松正「猥褻罪の二形態と身體露出罪」日本法学14巻5-8月号(1948年)60頁以下。)。しかし、生きた人間を「物」と同視する解釈には無理があり、こうした見解は「珍説たる域を脱しない」(木村龜二「ストリップの適用条文」同『刑法雑筆』(1950年)117頁)と言わざるを得ないであろう。

*11:前出福岡高判昭和27年8月30日における弁護人の控訴趣意でも、このような観点からの主張がなされている。

*12:最判昭和29年3月2日裁判集刑93号59頁。

*13:ただし、ストリップ・ショーに公然わいせつ罪が成立することを認めた最判昭和25年11月21日刑集4巻11号2355頁では、事実関係が必ずしも明らかでないものの、「其の日偶然広島市に見物に来たる被告人は責任は無いのである」という上告趣意に対して、「論旨には理由がない」との応答がなされていることから、観客である被告人に、公然わいせつ罪の共同正犯の成立が肯定されているようにも読める。

*14:高橋則夫『刑法各論〔第2版〕』(2014年)563頁、西田典之山口厚=佐伯仁志『注釈刑法 第2巻』(2016年)604頁〔和田俊憲〕等。

*15:「立法者意思説」と呼ばれる考え方である。団藤重光『刑法綱要総論〔第3版〕』(1990年)432頁等。

*16:日本におけるストリップ・ショーの起源は、1947年に新宿帝都座5階劇場で催された「ヴィナスの誕生」という「額縁ショー」であるとされている(橋本与志夫「ストリップとプレス・コード」悲劇喜劇28巻4号(1975年)32頁以下)。

*17:団藤重光編『注釈刑法(4)』(1965年)279頁〔団藤重光〕

*18:なお、仮にこの構成による場合、写真撮影を行う観客には「重要な役割」が認められるため、「幇助」ではなくむしろ「共同正犯」の成立を認めるのが自然であろう。

*19:なお、この他にも、他人に犯罪を決意させる「教唆犯」(刑法61条1項)という関与形態が存在するが、実務上ほとんど問題になることはないため、本稿では検討を割愛した。