ストリップ・ショーの処罰根拠を問う

1.はじめに

 前回まで確認したように、判例・通説はストリップ・ショーに公然わいせつ罪の成立を認めている。しかし、なぜ誰にも迷惑をかけていないストリップ・ショーが犯罪として取り締まられなければならないのだろうか。言うまでもなく、観客は自らの意思で劇場に足を運び、観劇を楽しんでいる。反対に、ストリップ・ショーが観たくない人の目に触れることはほとんど考えられない*1

 今回の記事では、このような根本的な疑問に対する判例・通説の応答を確認したうえで、ストリップ・ショーに公然わいせつ罪の成立を認めることの「おかしさ」を明らかにしたい。

2.通説による応答─「性道徳」の保護─

 判例・通説は、わいせつ罪の規定の存在意義を、「最小限度の性道徳」*2や「性生活に関する秩序および健全な風俗」*3の保護に求めることで、以上の疑問に答えようとする。すなわち、観客がいかに望んで鑑賞を楽しんでいたとしても、ストリップ・ショーが行われることにより、社会における性道徳や性秩序が脅かされるため、公然わいせつ罪として取り締まる必要があると考えるのである。

 もっとも、この理解に対しては、「性道徳」や「性秩序」という曖昧な概念を提示するだけでは処罰の根拠を十分に示せていない、との批判も向けられている。そこで、学説上は、ここでいう「性道徳」や「性秩序」の保護がなぜ必要なのかを明らかにすることが試みられている。

 その根拠の1つとされるのは「公衆の正常な感情」の保護である。わいせつ罪に該当する行為が存在することを知れば(見れば、ではない)人々は不快の念を抱くはずであり、このような不快の念から公衆を保護するために、「性道徳」が保たれた環境を維持する必要があると説くのである*4

 別の見解は、性道徳の保護の根拠を「性犯罪の抑止」*5や、「青少年の健全育成」に求める。すなわち、性道徳の乱れは、強制性交等・強制わいせつといった性犯罪を誘発したり、子供たちが性感覚において健全に成長する環境をむしばむおそれがあるため、性道徳を維持しなければならないと考えるのである。

 さらに、近時ではフェミニズムの立場から、わいせつの規制根拠を「女性蔑視の防止」に求める見解も登場している*6。わいせつは、女性蔑視を助長する性差別表現として禁止されるべきだ、というのである。

 これらの立場によれば、いずれにせよ「見る者の同意」はわいせつ罪の成否を左右しないことになろう。しかし、以上の説明は、一般論としても、また、ストリップ・ショーを規制する根拠としてもそれぞれ疑問が残るものである。この点については後に詳しく検討する。

3.「見たくない人の自由」の保護?

 他方で、国家による道徳の強制を排除する見地から、公然わいせつ罪の存在意義を、見たくない人の自由・感情の保護に求める見解も主張されている*7

 この見解は、国家が刑罰を用いて「性道徳」や「性秩序」を国民に押し付けることは不当であるという前提に立つ。むしろ、国家は個人の具体的な利益の保護に徹するべきであり、例えば露出狂のように、「見たくない人の自由」を侵害する危険のある行為のみを処罰の対象とすべきであると考えるのである。

 この立場は、本罪にいう「公然」を「不特定又は多数人が意図せずとも認識してしまう可能性のある状態」などと定義変えする*8ことにより、見ることを望んでいる者のみを対象とする場合を処罰の対象から除外しようとする。ストリップ・ショーについても、「見る者の同意」が得られている限り、「公然」性が否定され、本罪は成立しないとされる*9

 もっとも、この見解に対しては「条文上の根拠がない」との批判がなされる*10。すでに確認したように、刑法174条は「公然とわいせつな行為をした者」と規定しているにとどまり、「見る人が同意をしていれば罪に問われない」などとは一切書かれていない。また、以上のような「公然」の定義も、日本語の解釈としてはかなり無理があることは否めないであろう。それゆえ、この見解は少数説にとどまっている。

4.若干の検討

 それでは、公然わいせつ罪の存在意義を「性道徳」の保護に求め、ストリップ・ショーに本罪の成立を認める通説が正しいのだろうか。

 まず前提として、国家が刑罰という峻厳な手段を用いて国民の行動を統制する以上、その背後には「保護に値する利益」が存在することが不可欠である*11。したがって、「性道徳」を保護すべき実質的な理由を明らかにできるかどうかが、通説にとっての課題となる。

 その実質的な理由として挙げられるものの1つが「公衆の正常な感情」の保護であった。このような感情は法による「保護に値する」ものなのだろうか。

 確かに、公衆の中には、ストリップ・ショーが行われていることを知り、嫌悪感や不快感を抱くものもいるかもしれない。しかし、そのような嫌悪感や不快感は、多くの場合、実際にショーを鑑賞した経験がないことから生じる「無知」によるものである可能性が高い。そのような「無知」による嫌悪感から公衆を守るために、刑罰を用いることは不当であろう。

 もちろん、現在のストリップ・ショーの実態を熟知したうえで、なおストリップを嫌悪する者も存在するかもしれない。それはそれで一向に構わないことである。問題は、そういう者のために、ストリップを愛好する者の自由を奪うことがなぜ正当化されるかという点である。ストリップを嫌悪するのであれば、見に来なければ済むだけの話である。「この社会に存在することが気に食わない」という彼らのワガママのために、いちいち刑罰を投入していては、きりがないであろう。

 別の論者は、「性犯罪の抑止」を実質的な理由とするが、これも根拠薄弱である。つとに指摘されているように、わいせつ物の流通と性犯罪との間の因果関係は立証されていない*12。ストリップ・ショーについても、ストリップの鑑賞がレイプに結びついたなどという話を私は寡聞にして知らない。仮に結びつくことがあったとしても、レイプ行為の方を処罰すれば十分である*13

 「青少年の健全育成」を持ち出す見解に対しても、性表現が未成年者にとって有害であるとする実証的データが存在しないことを指摘できる。また、この点を措くとしても、ストリップ劇場では客の年齢確認が行われるのが一般であるため*14、青少年に対して有害な影響を与えているという事実も認められないであろう。

 さらに、「女性蔑視の防止」を持ち出す考え方にも疑問がある。まず一般論として、わいせつ表現と女性蔑視とは次元を異にしており、両者を結び付けることは困難であることが指摘できる*15。わいせつでなくても女性蔑視的表現はあるし、逆に、男性のみを被写体とするわいせつ物もある。

 また、ストリップ・ショーの規制根拠としてこの観点を持ち出すことは、尚更困難であるように思われる。女性である踊り子が自らの意思に基づいて演技を実施している以上、その演技が「女性蔑視を助長する」と評価することが、どうして可能なのだろうか。むしろ、彼女らが全身全霊をかけて作り出したステージを、「男の食い物」にされるにすぎない「女性蔑視」的表現と評価すること自体が、彼女らに対する重大な女性蔑視であるように思われる。

  以上のように、学説が提示している「性道徳」保護の実質的な理由づけは、一般論としても、また、ストリップ・ショーを規制する根拠としても、承服しがたいものである。通説がこの点の説明に成功していない現状では、法解釈として困難が残るとしても、「見たくない人の自由」という具体的な利益が侵害される危険がある場合に公然わいせつ罪の処罰範囲を限定し、ストリップ・ショーについて本罪の成立を否定するという、少数説の立場にそれなりの合理性を認めることができるのではないだろうか*16

 5.おわりに

 「見る者の同意」が存在するストリップ・ショーに公然わいせつ罪の成立を認める根拠を、判例・通説は「性道徳」の保護に求めてきた。しかし、この「性道徳」を、刑罰を用いて保護すべき実質的な理由の提示に、通説は成功していない。

 仮に「性道徳」の保護がわいせつ規制の目的であることを認めたとしても、ストリップ・ショーがここでいう「性道徳」を脅かしていることの証明はされていない。「性道徳」保護の実質的な理由を「性犯罪の抑止」、「青少年の健全育成」、「女性蔑視の防止」のいずれに求めるにせよ、ストリップ・ショーを規制する根拠としては薄弱である。

 さらに、ストリップ・ショーが「公衆の正常な感情」を害するものであるとしても、そのことがストリップを規制してよい根拠になるかは疑問である。「無知」や「偏見」に基づく公衆の不快感を理由として、ストリップを愛好する者の自由を奪うことがなぜ正当化されるのかが、ここでは問われなければならない。

 これらの「おかしさ」を棚上げにしたまま、恣意的な摘発が繰り返され、国民の自由が害されているのだとすれば、それこそが国家による最大の「不道徳」である*17

*1:見たくない人を無理やり劇場に連れて行く場合や、ストリップ・ショーの実態を知らぬまま、劇場に入ってしまう場合が考えられるが、前者は無理やり連れて行く行為の悪さを問うべきであり、後者は自己責任であろう。

*2:最大判昭和32年3月13日刑集11巻3号997頁〔チャタレイ事件〕。

*3:最大判昭和44年10月15日刑集23巻10号1239頁〔悪徳の栄え事件〕。

*4:町野朔『犯罪各論の現在』(1996年)262頁以下。なお、最高裁判決の個別意見(最判昭和58年10月27日刑集37巻8号1294頁の団藤裁判官の補足意見)の中では、本罪の保護法益を、「風俗的にいかがわしい商品等が世上に氾濫しない」という「精神的社会環境」に求める見解が示されている。これを支持するものとして、高橋則夫『刑法各論〔第2版〕』(2014年)561頁。

*5:東京地判平成16年1月13日判時1853号151頁。

*6:キャサリン・マッキノン=アンドレア・ドウォーキン『ポルノグラフィと性差別』(2002年)参照。

*7:平野龍一『刑法概説』(1977年)271頁。性的に刺激させられない自由の保護に求める見解として、林美月子「性的自由・性的表現に関する罪」芝原邦爾ほか編『刑法理論の現代的展開 各論』(2008年)60頁。性欲に関する自己コントロール権の保護に求める見解として、松原芳博『刑法各論』(2016年)495頁。

*8:伊東研祐『現代社会と刑法各論〔第2版〕』(2002年)403頁。

*9:松原・前掲注(7)499頁。ただし、青少年の保護という観点から、客の年齢確認を条件とする。

*10:山口厚『刑法各論〔第2版〕』(2010年)503頁も、立法論としては十分に成立しうる考え方であるとしながら、「わいせつ罪の現実の解釈・運用からはあまりに距離がある考え方であり、現行法の解釈論としてこうした見解を採ることにはなお実際上困難がある」と指摘する。

*11:このように、刑罰の役割を法的に保護に値する利益という意味での「法益」の保護に求める考え方を「法益保護主義」と呼ぶ。法益保護主義の現代的意義については、松原芳博「刑事違法論と法益論の現在」法律時報88巻7号(2016年)23頁以下を参照。

*12:田宮裕「わいせつに関するアメリカ大統領委員会の報告書」宮澤浩一=中山研一編『性と法律』(1972年)237頁以下参照。本報告書については、白田秀彰『性表現規制の文化史』(2017年)169頁以下も参照。

*13:萩原滋「わいせつ物頒布罪」西田典之山口厚=佐伯仁志『刑法の争点』(2007年)244頁参照。

*14:風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律28条12項4号は、18歳未満の者を営業所に客として立ち入らせることを禁止している。

*15:伊藤渉=小林憲太郎=齊藤彰子=鎮目征樹=島田聡一郎=成瀬幸典=安田拓人『アクチュアル刑法各論』(2007年)412頁〔島田聡一郎〕。

*16:萩原・前掲注(13)245頁も、表現の自由や刑罰法規の実体的適正の原則(憲法21条、31条)との調和という観点から、過度に広汎な刑罰法規の適用を限定し、処罰を制限する方向で限定解釈を行うことが許されるべきであるとする。

*17:田豊『法倫理学探究』(2017年)139頁以下がいみじくも指摘するように、国家の課題は、性道徳のようなローカルな「1階の道徳(Moral erster Ordnung)」の保護ではなく、むしろ個人の幸福追求の自由を(「1階の道徳」の保護を理由に)奪ってはならないという、普遍的な「2階の道徳(Moral zweiter Ordnung)」の実現に求められるべきであろう。