ストリップ・ショーと公然わいせつ罪の成否

1.はじめに

 前回までは、ストリップ・ショーと公然わいせつ罪を中心的なテーマとして、最新の議論状況をお伝えしてきました。もっとも、情報内容の正確性・網羅性を優先したため、皆さんにとっては、読むのが困難な分量であったのではないかと思います。そこで、今回は、これまでの記事の内容を簡単にまとめつつ、私の現在の考えを明らかにしておきたいと思います。

 結論から言えば、私は、現在のストリップ・ショーに公然わいせつ罪の成立を認めることはできないと考えています。したがって、捜査当局が今後もこの法律を根拠に、劇場の摘発を続け、劇場関係者やストリップ・ファンの活動に萎縮(いしゅく)をもたらすことがあるとすれば、それは国民の自由に対する不当な干渉であると考えます。

 残念ながら世間においてストリップはまだ「グレー」な業界と考えられているのが実情です。こうした世間の見方が、摘発する側の「後ろ盾」となっている面は否定できないように思います。こうした状況を打開していくためには、まず我々が正しい法律知識を身に着ける必要があるでしょう。

 そこで、以下では、私がストリップ・ショーに公然わいせつ罪が成立しないと考える根拠を説明したいと思います。不明な点があれば遠慮なくお尋ねください。また、より詳しい情報や出典を知りたい方は、前回までの記事も併せて参照いただければ幸いです。

2.問題の所在─「公然わいせつ罪」の成否─

 まず最初に確認ですが、ストリップ・ショーに関して、「わいせつ物公然陳列罪」の成立が問題になることはありません。わいせつ物公然陳列罪とは、文字通り、わいせつな文書、図画その他の「物(もの)」を公然と陳列した場合に成立する犯罪です(刑法175条1項前段)。踊り子さんの身体は「もの」ではありませんから、この犯罪が成立することはあり得ないのです。この「わいせつ物公然陳列罪」と、以下で検討の対象となる「公然わいせつ罪」は別物であることに注意をしてください。

 また、たまに「ストリップは風営法に反する」という発言も見かけるのですが、これも大きな誤解です。風営法、正確に言うと、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律ですが、この法律は、社会の清浄な環境を守るために、風俗営業ができる時間帯や場所について規制しています。現存するストリップ劇場も、この法律に従って、届出をしたうえで営業を行っているわけです。したがって、禁止されている場所や時間帯に営業をするような場合は当然アウトですが、この規制を守って営業している限り、風営法に反することはないといえます。

 ちなみに、条例で特別の定めがない限り、営業が禁止されている時間は「午前0時から午前6時」の間とされています(同法13条1項本文)。私などは、物足りず朝まで観劇したいと思うことも度々ありますが、どの劇場も午前0時までに閉まってしまうのは、風営法の規制がきちんと守られている証拠といえます。

 やや話が脱線しましたが、以上のように、日本の法律はストリップ劇場の存在を予定しています。したがって、風営法の設けたルールの枠内で営業している限り、基本的に問題はないはずだといえます。それでも、ストリップが「グレー」視されるのは、ストリップ劇場が「公然わいせつ罪」の規定(刑法174条)を根拠に摘発され、時に有罪を宣告されてきた過去に由来します。

3.公然わいせつ罪に問う「おかしさ」

 そろそろ、本題に入ることにしましょう。日本の刑法174条は、「公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する」と規定しています。公然わいせつ罪が成立するためには、当然ながら、①「公然」性と、②「わいせつ」性の両方が満たされなければなりません。

 結論から言うと、私は、ストリップ・ショーに関して、①「公然」性が認められるか疑わしく、仮にこれが認められるとしても、②「わいせつ」性は否定されるべきであると考えています。以下、それぞれについて検討を進めたいと思います。

(1)「公然」性について

 裁判所は、この「公然」性の意味を、「不特定又は多数」の人が認識できる状態と理解しています。それゆえ、多数の観客を予定している大規模劇場(浅草ロック座など)は当然のことながら、少数の観客しか予定していない小規模劇場についても、「不特定」の人物が観客として来訪する可能性がある限り、「公然」性は満たされることになります。

 しかし、このような理解に対しては疑問もあり得ます。というのも、そもそも「公然」な場所(例えば、公園など)でわいせつ行為をすることが許されないのは、それにより、わいせつ行為を「見たくない人」が目撃をして不快な思いをする可能性があるからであり、反対に、その場にいる全員が見ることに同意をしているのであれば、いかに不特定・多数の人がその場にいるとしても、「公然」性を認める必要はない、と考える余地があるからです。

 刑法学の専門家の中でも、このような見解は有力に支持されています。例えば、学習院大学教授の林幹人氏は、「何を見るかについて、本人の了解・同意がある者が集合している場合には、公然とするべきではない」とし、観客が見ることに同意をしているストリップ・ショーについては、公然わいせつ罪が成立する余地はない、と明確に述べています(同『刑法各論〔第2版〕』(2007年)403頁)。

 このように、ストリップ劇場について「公然」性を否定する考え方には、かなりの説得力があるように思います。ただし、現在の裁判所がこの考え方を採用する可能性は低いと言わざるを得ません。なぜなら、裁判所は、公然わいせつ罪を、社会の「性道徳」を脅かす罪であると理解しており、たとえ見る者全員が同意をしているとしても、不特定・多数の面前でわいせつな行為が行われること自体を(「性道徳」を脅かすものとして)取り締まる必要があると考えているからです。

(2)「わいせつ」性について

 もっとも、仮に「公然」性が認められるとしても、ストリップ・ショーについては「わいせつ」性が否定されるため、いずれにせよ公然わいせつ罪の成立を認めることはできないと考えます。

 そもそも「わいせつ」とは一体何でしょうか。裁判所は、公然わいせつ罪にいう「わいせつ」を、「①行為者又はその他の者の性欲を刺激・興奮・満足させる動作であって、②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するもの」と定義しています。なんとも曖昧で分かりにくい定義ですが、ここで注意する必要があるのは、単にエッチであるとかお下品であるという理由だけで、「わいせつ」性が肯定されてはならない、ということです。

 というのも、「わいせつ」とされ犯罪の成立が認められれば、国家は国民に対して、強制的に罰金を支払わせたり、場合によっては、刑務所に閉じ込めることができるようになるわけですから、逆に言えば、こうした「刑罰」という過酷な手段を通じて禁圧しておかなければ、この国の「性道徳」が脅かされ、社会秩序が崩壊してしまうような性質を備えるものが、初めて「わいせつ」として評価されることになります。上述の定義が意味するところも、このような観点から理解する必要があるでしょう。

 この点を正しく踏まえるならば、ストリップ・ショーに「わいせつ」性を認めることが、いかに馬鹿げているかが分かります。かつて行われていたような、舞台上で客と踊り子が性交を行う「生板ショー」などはともかく、現在の、ダンスパフォーマンスを中心とするエンターテインメント性の高いストリップ・ショーに、以上のような反社会的な性質を認めることは到底困難であると言わざるを得ません。このことは、ストリップ・ショーが女性客も含めた普通の人々の間で広く受け入れられているという事実や、近年ではメディア等で公然と取り上げられているという事実からも裏付けることができるでしょう。

 こうした主張に対しては、「ストリップが『わいせつ』であることは動かしがたい判例である」と反論されることもありますが、これは誤解であるように思います。確かに、日本の最高裁判所は過去に、ストリップ・ショーが「わいせつ」な行為に当たることを認めています(最判昭和25年11月21日刑集4巻11号2355頁等)。しかし、それはもう何十年も前の話です。当時は、性的な描写が一部含まれていた文学作品さえも「わいせつ」であり、その出版が犯罪になるという、現在では一笑に付されるような判断が平気でなされていた時代ですから、生の裸に「わいせつ」性が認められたことも、そう不自然なことではありません。これに対して、インターネット上で当たり前のように過激なエロ画像・動画が氾濫する現代において、同じ判断がなされるとは限らないのです。むしろ、以前に説明したように、現在の裁判所が「わいせつ」性の判断に際して、「芸術性」や「普通の人の感覚」を考慮する傾向にあることに鑑みれば、ストリップの「わいせつ」性が否定される可能性も十分に認めうるでしょう。

 さらに、「性器の露出がある以上、わいせつという判断は揺るがない」との指摘がなされることもありますが、そんなことは法律のどこにも書かれていません。確かに、「性器の露出」の有無が摘発に際して重視されてきたことは事実ですが、それは取り締まる側がそのように運用してきたというだけの話であり、何か確固たる法的根拠が存在するわけではありません。最近でも、ろくでなし子さんの事件で、女性器をかたどった石膏にデコレーションを施した作品の「わいせつ」性を否定する判断を裁判所が示したことは注目に値するでしょう。「性器=わいせつ」という空虚な公式は、すでに綻びを見せ始めているように思います。

 4.おわりに

 「わいせつ」か否かの判断は、良くも悪くも、社会常識によって変動するものです。かつては誰もが「わいせつ」な文書であると信じて疑わなかったような官能的な文学作品でも、現在、これを「わいせつ」だと評価する人はいません。ストリップ・ショーに関しても、社会の性道徳を脅かすような危険を含むものではないという(我々からすれば当たり前の)認識を、常識として定着させていくことが、不当な摘発を防ぐための、着実な道となるように思われます。

 なお、本記事の主張は、現在のストリップ・ショーが「法的に」潔白であるという点に尽きます。したがって、ストリップが今後、より芸術的で上品な方向での発展を目指していくべきなのか、あるいは、「大人の嗜み」として、表の世界にはない娯楽としての発展を目指していくべきなのかといった点に関して、何かを語るものではありません。それは、ストリップという文化を支える踊り子さん、劇場関係者、ファンの皆さんが、先達のバトンを引き継ぎながら、これからも答えを探していくべき問題といえましょう。本記事は、そうした営みを邪魔する権利は誰にもないという、余りにも「当たり前すぎる」ことを確認するためのものにすぎないのです。