「わいせつ」概念の意義と判断方法

1.問題の所在

 日本の刑法は、公然と「わいせつ」な行為をすることを処罰の対象としている(刑法174条)。すでに確認したように、従来の判例・通説は、ストリップ・ショーに「わいせつ」性を認めてきた。しかし、ここでいう「わいせつ」の具体的な意味は明らかではない。

 最近では、女性器をかたどった石膏にデコレーションを施した作品(デコまん)を発表してきた漫画家のろくでなし子氏が、わいせつ物公然陳列の罪(刑法175条1項前段)などで逮捕・起訴されたことが世間の注目を集めた。2015年4月に東京地方裁判所で始まった公判には、傍聴席を何倍も上回る希望者が毎回詰めかけたという。彼女の著書*1のタイトルの通り、まさに「ワイセツって何ですか?」という問いは、インターネット上で当たり前のように過激なエロ画像・動画が広く流布する現代において、改めて問われなければならない。

 そこで、今回は「わいせつ」概念の意義や判断方法について検討を加えつつ、現代において、ストリップが本当に「わいせつ」なショーといえるのかどうかを考察したい。

2.「わいせつ」とは何か

(1)わいせつ3要件論

 最高裁判例によれば、「わいせつ」とは、①いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するものをいう*2。この「わいせつ3要件論」といわれる定義は、「サンデー娯楽」というカストリ雑誌*3が、刑法175条にいう「わいせつ」な「文書」に当たるかどうかが争われた事件で最高裁に初めて採用されたものである。この定義は、公然わいせつ罪にいう「わいせつ」概念にも同様に当てはまるものと理解されている*4

 もっとも、この定義には「正常な性的羞恥心」や「善良な性的道義観念」といった曖昧で掴みどころのない概念が含まれており、この定義だけで、具体的に何が「わいせつ」に当たるのかを判別することは困難である。そこで、以下で見るように、裁判所はこれまで「わいせつ」概念の判断基準の具体化に努めてきた。

(2)「芸術」か「わいせつ」か

 「わいせつ」性の限界は、文芸作品をめぐる一連の裁判の過程で、作品が「芸術かわいせつか」という形で争われてきた。

 最高裁判所は、当初、「芸術だからわいせつではない」という言い分には否定的であった。文芸作品がわいせつかどうかが争われた最初の裁判である「チャタレイ事件」(1957年)において、最高裁は、「芸術といえども、公衆に猥褻なものを提供するなんらの特権をもつものではない」と断じ、D・H・ロレンスの文学作品である『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳書につき、作品の一部にわいせつな箇所が含まれる以上、わいせつな文書に当たると結論づけた*5

 これに対して、この判決の12年後の「悪徳の栄え事件」(1969年)で、最高裁はこの方向性に修正をかけた*6。この事件では、マルキ・ド・サドの長編小説である『悪徳の栄え』の翻訳書のわいせつ性が争われた。なお、ご存知のように、サディズムの語源は彼の名前にある。

 この事件で最高裁は、結論的に本書のわいせつ性を肯定したものの、「文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる」余地を肯定し、「文書の個々の章句の部分は、全体としての文書の一部として意味を持つものであるから、その章句の部分の猥褻性の有無は、文書全体との関連において判断されなければならない」とした。

 この「全体的考察方法」という判断方法は、その11年後の「四畳半襖の下張り事件」(1980年)でさらに具体化された*7。この作品は、永井荷風作と伝えられている短編小説である。本件では、出版社社長と同社が出版する雑誌の編集長兼小説家が、これを月刊誌『面白半分』に掲載し、販売したところ、わいせつ文書販売罪に当たるとして起訴された。

 本件で最高裁は、文書のわいせつ性の判断にあたり、①当該文書の性に関する露骨で詳細な表現の程度とその手法、②その表現が文書全体に占める比重、③文書に表現された思想等とその表現との関連性、④文書の構成や展開、さらには⑤芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、そして、これらの観点から該当文書を全体としてみたときに、⑥主として読者の好色的興味にうったえるものと認められるか否かなどの諸点を総合的に検討すべきであるとした。

 以上のように判例は、作品の芸術性を考慮して「わいせつ」の範囲を限定する方向にシフトしているといえる。近時でも、冒頭で紹介した「ろくでなし子事件」で、東京地裁は、女性器を象った造形物(デコまん)につき、「一定の芸術性・思想性を有し、それによって性的刺激が緩和されるといえる」と述べ、その「わいせつ」性を否定するという注目すべき判断を示している*8。この判断は、控訴審である東京高裁からも支持されており*9、裁判所の現代芸術に対する一定の理解を読み取ることができよう*10

(3)「社会通念」の変化の考慮

 このような、「わいせつ」を限定する方向性は、「社会通念」に対する裁判所の態度の変遷の中にも表れている。

 かつて最高裁は、チャタレイ判決において、わいせつの評価・判断基準を「一般社会において行われている良識、すなわち社会通念である」としたうえで、社会通念の内容については、事実として存在する個々人の意識の集合や平均値ではなく、これを超えた集団意識*11であるとし、このような「社会通念がいかなるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられている」とした。

  要するに、たとえ社会の性に関する考え方が変わり、個々人が「これはわいせつではない」と思うに至ったとしても、「わいせつ」かどうかの判断が裁判官に委ねられている以上、裁判官が「わいせつ」だと判断すれば、それは「わいせつ」なのだ、というのである。現に、チャタレー判決はこれに続けて、「相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない」と述べている。

 この「頑固おやじ」のような高圧的・権威的な言いっぷりは、「猥褻は裁判官の頭の中にある」などと揶揄され、強い批判の対象となった*12。これを受け、その後の裁判例では、性に関する社会の観念の変化を考慮に入れてわいせつ判断を行うべきことを認めるようになる。

 例えば、『恋の狩人・ラブハンター』などを初めとする成人映画4作品が、わいせつ図画に当たるとして起訴された「日活ロマンポルノ事件」で、東京地裁は、「社会通念を判断するに当たっては、今日における国民の多様な価値観、倫理観、性に関する意識、娯楽に対する観念、更には現代の世相などを広く考慮に入れて判断しなければならない」と述べ、これらの映画のわいせつ性否定をした*13

 さらに、大島渚の脚本・監督の映画「愛のコリーダ」の脚本、スチール写真などを収録した『愛のコリーダ』がわいせつ文書に当たるとして起訴された「愛のコリーダ事件」でも、東京地裁は、「性表現流布のもたらした普通人の意識の変化は、普通人の間に存する良識・社会通念にも影響を及ぼさざるをえない」とし、普通人の「馴れ」や「受容」、さらに「捜査機関等による放任の程度」を考慮して、わいせつ性の有無を判断すべきであるとした。その結果、『愛のコリーダ』は、「社会通念許容の限度を超えていない」とされ、そのわいせつ性が否定されている*14

 このように、裁判所は、「わいせつ」概念をより「普通人の感覚」に近づけて理解しようと努力していることが分かる。

3.ストリップの「わいせつ」性・再考

 以上をまとめると、裁判所は「芸術」性や「普通人の感覚」を考慮して、「わいせつ」性の範囲を限定する方向にシフトしてきたといえる。裁判所に「芸術」を見極める能力があるかどうかについては疑問が残るものの*15、この方向性自体は、「表現の自由」の保障という観点から見て、歓迎すべきことであろう。

 また、このことは、当然ながらストリップ・ショーの「わいせつ」性の評価とも無関係ではない。ショーとして芸術性があることに加えて、ストリップが普通の人々に抵抗なく受け入れられており、捜査機関もその実態を熟知しながら放任しているといった事実を考慮して、現在の裁判所が、ストリップ・ショーの「わいせつ」性を否定する判断を示す可能性は十分ありうる。近時、女性客も増加し、メディア等でも公然と取り上げられている事実も、このような判断を後押しするだろう。

 すでに本ブログでも紹介したとおり、最高裁は過去にストリップ・ショーの「わいせつ」性を肯定する判断を示している。しかし、それはもう何十年も前の話である。少なくとも公刊の判例集を見る限り、正式裁判でストリップ・ショーに「わいせつ」の烙印が押された事例は、平成に入ってから1件も見られない。ストリップが「わいせつ」だという判例は、もはや「過去」のものと見る余地が十分に存在するのである。

 ただし、いくつかの心配材料もある。まず、日本の法律がストリップ劇場を「専ら、性的好奇心をそそるため衣服を脱いだ人の姿態を見せる興行」と位置づけている(風営法2条6項3号)ことは、「芸術的だからエロくない」という主張をする際にネックとなり得るだろう。

 また、捜査機関による運用の考慮は、マイナスに働く可能性もある。というのも、「警察がわいせつだと考えたのであれば、それはわいせつなのだ」という形で、裁判所が、捜査機関の判断をそのまま追認するおそれがあるからである。これでは、猥褻が「裁判官の頭」の中から、「警察官の頭」に移っただけで、問題はより深刻さを増すだけだろう。

4.おわりに

 本記事では、「わいせつ」性の意義・判断方法に関する裁判所の考え方の変化について概観するとともに、いくつかの心配材料はあるものの、現在の裁判所が、ストリップ・ショーの「わいせつ」性を否定する判断を示す可能性があることを明らかにした。

 さらなる検討は、後日に機会を改めて行うが、最後に一点だけ指摘をしておきたい。

 「芸術かわいせつか」論争について、裁判所は、当初の「表現の自由」に厳しい態度から一転し、作品の芸術性によりその「エロさ」が緩和され「わいせつ」性が否定される余地を認めるに至った。これより、多くの性表現が守られるのはそれ自体結構なことではある。しかし、このように「芸術」と「エロ」を切断し、両者を相容れないものと考える前提は大いに疑う余地があるように思われる*16

 個人的な話で恐縮だが、私はストリップを観劇した初日に、ある常連客から「アートであってエロではないだろう?」と同意を求められ、強い違和感に苛まれたのをよく覚えている。私の目の前で繰り広げられたショーは、磨き抜かれた「エロ」であったし、だからこそ、私はそれを「アート」と感じたのである。

 先日、若林美保さんがツイッターで、「アートとエロを無理に切り離して考えようとする風潮に違和感を感じ」るとコメントをされていたが*17、私にはこれが極めて重要な問題提起であるように感じられる。憶測にすぎないが、恐らく、「自分はアートを嗜んでいるのであり、決してエロいわけではないのだ」という自己弁護の意識が、こうした切断思考に結びついているのであろう。

 しかし、そもそも一体エロいことの何がいけないのだろうか。この点に正面から向き合わない限り、我々は「わいせつか芸術か」という陳腐な二者択一に永遠にとらわれ続けることになる*18

 「ストリップはアートであってエロではないだろう?」──ストリップ観劇人生の初日、オジサンに突き付けられたこの「宿題」は、今も私の背中に重くのしかかっている。

*1:ろくでなし子『ワイセツって何ですか?』(2015年)。さらに、ろくでなし子『私の体がワイセツ?!』(2015年)では、事件の裏側が分かりやすいイラスト付きで紹介されている。

*2:最判昭和26年5月10日刑集5巻6号1026頁。

*3:カストリ雑誌とは、戦後の日本で多数発行された、性的刺激の強い出版物である。当時の「かすとり焼酎」という密造酒が、アルコール分が高く、三合も飲むと酔いつぶれてしまうことから、三号で休刊・廃刊になることの多かったこれらの雑誌も「カストリ雑誌」と呼ばれるようになったとされる。

*4:例えば、東京高判昭和27年12月18日高集5巻12号2314頁によれば、公然わいせつ罪にいう「わいせつ」な行為とは、「その行為者又はその他の者の性慾を刺戟興奮又は満足させる動作であつて、普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するものと解するのを相当とする」としている。

*5:最大判昭和32年3月13日刑集11巻3号997頁。

*6:最大判昭和44年10月15日刑集23巻10号1239頁。

*7:最判昭和55年11月28日刑集34巻6号433頁。

*8:東京地判平成28年5月9日判タ1442号235頁。

*9:東京高判平成29年4月13日裁判所HP。

*10:ただし、同じく起訴の対象となった女性器の3Dデータの提供行為については、わいせつ電磁的記録送信頒布罪(刑法175条1項後段)・わいせつ電磁的記録記録媒体頒布罪(同項前段)が成立するとの第一審の判断が維持されている。これに対しては現在弁護側が上告中であり、最高裁の判断が待たれる。

*11:ここでいう「集団意識」とは、社会学等で調査・認識されるような実在する「社会意識」ではなく、あくまでも裁判官が「あるべき」と考える良識を指すものと考えられる(梅崎進哉「チャタレー体制下のわいせつ概念とその陳腐化」西南学院法学論集50巻4号(2018年)30頁)。

*12:園田寿=臺宏士『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年)209頁以下。

*13:東京地判昭和53年6月23日判時897号39頁。東京高裁も、性行為非公然の原則が厳として存在するとしても、この原則がどの程度及ぶかの判断は、時と所による制約を免れないとして控訴を棄却して無罪判決が確定した(東京高判昭和55年6月23日判時975号20頁)。

*14:東京地判昭和54年10月19日判タ398号57頁。この判断は、控訴審(東京高判昭和57年6月8日刑月14巻5=6号315頁)でも維持され、無罪判決が確定した。

*15:国家が芸術の内容に立ち入ってその価値を評価することの妥当性に疑問を示すものとして、町野朔『刑法各論の現在』(1996年)237頁以下、中森喜彦『刑法各論〔第4版〕』(2015年)246頁。

*16:梅崎・前掲注(12)24頁注48は、「エロティシズムの発揮」もそれ自体、重要な芸術活動のテーマでありうるため、「芸術であるからエロティックでない」という論理は成り立たないと述べる。この意味では、梅崎が指摘するように「チャタレー判決のとらえ方も、正しい一面を持っている」と言えよう。

*17:https://twitter.com/wakamiho/status/988240240799174656(2018年8月2日最終閲覧)。

*18:このような二者択一的な議論に対するアンチテーゼとして、木下直之「もういい加減『芸術かワイセツか』はやめようよ」(https://ironna.jp/article/2242)。