〔資料〕ストリップ関連判例集─公然わいせつ罪関係─

はじめに

 今回は、資料編として、ストリップに関連する判例の中で、公然わいせつ罪の成立が争われたものを紹介する。紹介においては、「事案の概要」と「裁判所の判断」に加えて、読者の便宜のために簡単な「コメント」を付した。また、事件の争点が明確になるよう、「事案の概要」の中で、原審(一つ前の段階でその事件を審理した裁判所のこと)の判断内容と、これを争う当事者の主張内容についても紹介をしたので、参考にしていただきたい。なお、本記事では、判例を網羅的に紹介したつもりであるが、万が一漏れがある場合は、ご指摘いただけると幸いである。

【1】花月劇場事件

  最高裁昭和25年11月21日判決(刑集4巻11号2355頁)

 (1)事案の概要

 被告人は、歌謡曲、舞踊、寸劇等を内容とする「楽園モデルショー」と称する楽団(以下、「本件楽団」という。)を組織し、団員十数名を引き連れて各地を巡業していた者である。本件楽団の演出の内容は、被告人が予め作成した脚本で決められていたところ、この脚本の中には「モデル」と題する一面があり、そこでは全裸の女性団員A(当時27歳)が、薄い幕の後方にて約1分30秒程立つことになっていた。

 昭和23年5月24日から27日までの間、本件楽団は、その興行権を譲り受けたBの指図に従い、広島市松原町花月劇場でショーを実演することになった。同月26日夜、同劇場で約200名の観客を前に、Aは前記脚本の要領に従い、当初は全裸で紅絹の布切れを胸の辺から垂らして持つた姿で立ち、開演すると間もなくその布切れを下に落して、全く一糸もまとわぬ全裸となり、陰部も露出した姿で約1分30秒間ポーズを取って立ち続けた。

 原審である広島高裁(広島高判昭和25年3月10日刑集4巻11号2358頁)は、Aの上記行為が「観客の性欲を刺激し羞恥の感情を起こさせるに十分」なものであり、公然猥褻行為に当たるとしたうえで、Aと上記行為を共謀した被告人には、公然わいせつ罪の共同正犯が成立するものと結論づけた。

 これに対して、弁護人は、欧米先進国において本件のような裸体演劇が数十年前から立派な芸術として認められており、戦後の日本においてもストリップ・ショーのごとき裸体劇が公然と認められていることからすれば、本件のモデルショーを犯罪行為とするのは「時宜に反する」等として争い、最高裁に上告した。

(2)裁判所の判断

 「原審の認定した事実は刑法174条〔注─公然わいせつ罪〕に該当すること明白である。論旨は独自の見解にすぎないから理由がない。」

(3)コメント

 本件は、ストリップ・ショーと公然わいせつ罪の成否が問題となった歴史上最初の判例である。この当時から、すでに裸体演劇の芸術性が説かれ、これを公然わいせつ罪に問うことが「時宜に反する」と主張されていた点は興味深い事実である。

 もっとも、最高裁は、この弁護人の主張を「独自の見解にすぎない」としてあっさり切り捨てている。この最高裁の判示により、以降ストリップが猥褻行為に当たるという判例が確立していくことになるが、少なくともこの時点で最高裁が、十分に説得力のある根拠を示していたとはいえないであろう。

【2】「肉体の宿」事件

  最高裁昭和25年12月19日判決(刑集4巻12号2577頁)

(1)事案の概要

 被告人は、甲府市所在の映画館である甲府宝塚劇場(以下、「本件劇場」という。)の支配人であった。被告人は、Aの仲介により昭和23年2月19日より4日間、本件劇場で、Bの率いる劇団青春座に、ステージダンサーであるCを加えて、「肉体の宿」と題する演劇を上演することとなった。ところが、その当時同市内の映画館オリオンパレスにおいて、演劇「肉体の門」が上映されることになっていたため、被告人は、これに対抗するため挑発的な演劇により観客を惹きつけようと企て、Aらと共謀の上、「肉体の宿」を上演するにあたり、Cを全裸にさせ、その局部を観客に観覧させた。

 原審の東京高裁(東京高判昭和25年4月22日刑集4巻12号2584頁)は、「照明を集中した中で」全裸にさせたという事実を認定したうえで、本件行為が猥褻行為に当たるのは明らかであるとして、被告人に公然わいせつ罪の共同正犯の成立を認めた。

 これに対して、弁護人は、本件行為が猥褻行為に当たるかを認定するに際して、演劇者の姿態と照明の関係は重要であるところ、原判決は、「照明を集中した中で」という事実を、何の証拠もなく認めており、証拠不備の違法がある等として最高裁に上告した。

(2)裁判所の判断

 本件最高裁は、「Cに対する検事の聴取書の記載によればCが全裸となった時照明が其身体に照らして居たことがわかる」ため、「証拠上特に『集中』という文句がないからといって罪となるべき事実の認定に影響はない」として、本件行為を猥褻行為と評価した原判決の判断を支持した。

(3)コメント 

 本件でも、局部を観客に観覧させたことを決定的な根拠として、わいせつ性が肯定されたものと評価できる。

 本件で興味深いのは、弁護人が「演劇者の姿態と照明の関係」に着目し、照明の集中に関する十分な証拠がないことを理由に、わいせつ性の認定を争っている点である。これに対して、最高裁は、聴取書の中に「集中」という文言がなくとも、照明が身体を照らしていた事実は認定できるとして、弁護人の主張を斥けているが、仮に、照明による照射の事実が認定できない場合に、「わいせつ」性が否定されるかどうかは不明である。

 この点、もし照明が当たらない結果、演劇者の姿態や局部が観客に見えなかったという場合であれば、観客の性欲を刺激興奮させることもないであろうから、「わいせつ」性は当然に否定されることになろう。

 他方で、観客に視認が可能であれば、「照明の集中」は必ずしも「わいせつ」性の認定にとり重要ではないようにも思われる。これに対して、弁護人は、「照明の集中」を「わいせつ」性の認定に不可欠な事実であることを前提としているようであるが、その根拠についてはなお検討を要するところであろう。一つの考え方として、「照明の集中」があるからこそ、その演出効果として、観客の性欲を刺激興奮させるのだ、という理解がありうるが、照明の集中と性欲の興奮に必然的な関係があるかはやや疑問である。

 なお、本件最高裁は公訴事実の特定の問題や、公然わいせつ罪の罪数についても重要な判断を示しているが、公然わいせつ罪の成否の問題とは直接関係しないため、紹介を割愛した。

【3】「ブルー・イン・ザ・ナイト」事件

  福岡高裁昭和27年9月17日判決(高刑集5巻8号1398頁)

(1)事案の概要

 被告人は、ストリップ・ショーの踊り子として各地を巡業していた者である。被告人は、男達がしばしば宴席等で酒瓶や徳利を陰部付近に押し当てて踊る「ヨカチン踊」からヒントを得て、「ブルー・イン・ザ・ナイト」と称する演目を自ら考案していた。

 被告人は、昭和26年6月7日、同月8日、同月10日、同月11日の4回にわたり、福岡県東中洲所在のテアトル川丈劇場の舞台で、一般観客数百名を前にし、「ブルー・イン・ザ・ナイト」を演ずる途中、照明の集中したところで着用のドレスを脱ぎ捨て、巾約4寸、長さ約7寸の肉色の三角巾で僅かに陰部を覆う以外は、ほとんど一糸もまとわぬ全裸となり、数分間にわたりビールの空き瓶の尖端部を右手で握ったまま、陰部付近に押し当て、左手で瓶の底部や上部付近を撫でまわしながら、速度の緩い音楽に調子を合わせて、腰を前後左右にくねり動かして踊った。

 原審の福岡地裁(福岡地判昭和27年2月1日高刑集5巻8号1407頁)は、被告人のストリップ・ショーが「一種の芸術であるか否かはしばらく措き、またそれが滑稽な要素を有することはあるとしても〔中略〕右ショウが人の性欲を刺激し羞恥嫌悪の情を催させるに足ることは明瞭である」として、被告人に公然わいせつ罪の成立を認めた。

 これに対して、弁護人は、本件踊りは滑稽な踊りをリズムに乗せたまでであり、ほとんど全部の証人が「観客はヤンヤと歓声をあげていた」と証言していることからも、本件踊りが羞恥嫌悪の情を催すものとはいえないとして控訴した。

(2)裁判所の判断

 被告人の「所作姿態は、一般観客に男女の性交乃至は露出した男子の生殖器を連想させて徒に性欲を興奮又は刺激させ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものと認められるから、原判決が判示舞台上でした被告人の所為を、刑法第174条所定の公然猥褻の行為に該当するものとしたのは正当である。」

(3)コメント

 本件では、性交や生殖器の連想という点から、「わいせつ」性が肯定されたと評価できるが、弁護人による主張、とりわけ、観客が歓声を上げる享楽的な雰囲気が存在していたにもかかわらず、何ゆえに本件行為が「羞恥嫌悪の情を催すもの」と評価できるのか、という指摘に対する説得的な応答はなされていないように思われる。

 確かに記録によると、検察側証人の中には、本件ショーに羞恥の感情を抱いたと証言した者がいたようである。しかし、それらの証人は、当時16歳の未成年者の検察庁雇員や、本件検挙のために上司のすすめで入場した女子警察官である(弁護人の控訴趣意より)。弁護人がいみじくも指摘するとおり、これらの者が、わいせつ性判断の基準となるような「一般人」といえるか疑わしいし、特に「未成年者の判断、感想は猥褻の判定の基礎とするには最も不当というべき」であろう。

 本件はその後、最高裁に上告されたが、最高裁も、弁護人の主張を「独自の証拠判断」であるとしてあっさり切り捨てたうえで、原判決の判断を支持しており(最判昭和29年3月2日集刑93号59頁)、以上の疑問に対する応答は結局なされていない。

【4】「スターライト」事件

  東京高裁昭和27年12月18日判決(高刑集5巻12号2314頁)

(1)事案の概要

 被告人は、興行斡旋を業として、昭和24年10月頃から、キャバレー「スターライト」における催物を専属的に引き受けていた。踊り子であるAは、被告人からショーの依頼に基づき、キャバレー内ホールにおいて数十名の観客が取り巻く中で、腰部に白色のサロン1枚を纏い胸部に乳バンド一本を着用したにとどまる半裸体で立ち現れ「マニヒニメレ」と題するジャズ演奏に合わせて臀部を動かす「フラダンス」を踊りつつ、乳バンドを取り去り、次いでサロンを脱ぎ捨てて陰部を露出した後、更に両脚を交互に前方に挙げ両股を開いたまま臀部を床につけるなどの動作を行った。

 原審の東京地裁(東京地判昭和26年2月12日高刑集5巻12号2322頁)は、以上のAの行為を「ショウ」実演に名を借りた公然猥褻の行為であると評価し、被告人に公然わいせつ罪の共同正犯の成立を認めた。

 これに対して、検察側は、公然わいせつ罪にいう猥褻の行為であるためには、人の精神作用の発露たる行為であることを要するところ、演技全体の中心をなすAの全裸の肉体は、精神ある人の行為としての意味を有さず、単なる肉体の観覧物に過ぎないとしたうえで、本件では公然わいせつ罪ではなく、より刑の重いわいせつ物公然陳列罪(刑法175条)の成立を認めるべきであるとして控訴した。

(2)裁判所の判断

 「控訴論旨において猥褻の行為とは人の精神作用の発露たる行為でなければならないと主張するのは、如何なることを意味すのであるか必ずしも明瞭でないが、少くとも前記Aの原判示のとおりの動作が他人(原判示数十名の観客)の性欲を刺戟興奮させるものであり且つ同女がその原判示行為当時このことを認識していたこと及びこれが普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義心に反するものであることはいずれも原判決挙示の証拠によりこれを肯認するに十分であり、記録に徴しても右認定が誤であると思われる点はないから、同女の右所為はまさしく刑法第174条にいわゆる猥褻の行為に該当するものと認めるべきである」。

 (3)コメント

 本件は、他の事件と異なり唯一、検察官が不服を申し立てて控訴している点が特徴的である。この当時、公然わいせつ罪の法定刑は「6月以下の懲役若しくは5百円以下の罰金又は拘留若しくは科料」であり、わいせつ物公然陳列罪の法定刑は「2年以下の懲役又は5千円以下の罰金若しくは科料」であった。そこで、検察官は、本件のようなショーについては、公然わいせつ罪ではなく、より刑の重いわいせつ物公然陳列罪を成立させるべきであると主張したのである。

 その根拠は、春画や映画を観覧させる場合との均衡にある。すなわち、例えば情交の場面を描いた春画や映画を公衆に見せた場合には、わいせつ物公然陳列罪が成立することになる。これに対して、より観客の性欲を刺激興奮させる「生身の人間」の裸を見せた場合に、これより軽い公然わいせつ罪(の共犯)が成立するにとどまるとするのは、刑のバランスが取れないというのである。こうした見解は、当時の学説でも主張されており、裁判例の中にも、ストリップガールに陰部の露出を命じた者に、わいせつ物公然陳列罪の成立を認めたものも存在していたところである(【5】事件の第1審である東京地判昭和26年12月17日刑集9巻9号1775頁)。

 しかし、踊り子の肉体をわいせつ「物」と評価するのは、やはり無理のある考え方である。仮に上述のような刑の不均衡が存在するとしても、それは本件高裁が指摘するように、「法の改正に是正解決の途を求めるべき」であろう。その限りで、本件高裁の判断は妥当であると評価できる。ただし、本件のようなショーがそもそも公然わいせつ罪に当たるかどうかという点に関しては、本件高裁もやはり十分な根拠を示せてはいないものと思われる。

【5】「湯島の白梅」事件

  最高裁昭和30年7月1日決定(刑集9巻9号1769頁)

(1)事案の概要

 被告人は、東京都北区赤羽町所在の赤羽公楽劇場において、ストリップガールAに命じて、多数の観客の前で、伴奏曲「湯島の白梅」に合わせて踊り、時折衣装をわきにずらせて陰部を露出する等の行為をさせた。

 原審の東京高裁(東京高判昭和27年12月27日刑集9巻9号1776頁)は、被告人に公然わいせつ罪の教唆犯(刑法61条1項)の成立を認めた。

 これに対して、弁護人は、公然わいせつ罪の成立を認めるためには、踊り子Aによる「自ら性欲的興奮を求めての性的所作がなくてはならない」とし、「単なる陰部の露出のみを以つてして刑法第174条に該当すると為すは法の曲解も甚しと云はざるを得ない」として、被告人の無罪を主張し上告した。

(2)裁判所の判断

 最高裁は、本件のような場合が刑法174条に規定する公然猥褻の行為に当たることは、過去の判例である最判昭和25年11月21日刑集4巻11号2355頁(【1】事件)、最判昭和25年12月19日刑集4巻12号2577頁(【2】事件)に照らして明らかであるとし、弁護人の上告を棄却した。

(3)コメント

 本件は、公刊物登載判例に関する限り、ストリップ・ショーが公然わいせつ行為に当たるかどうかが争われた最後の事件であるが、その判断は、過去の判例の引用だけで終わっており、実質的な検討は何も加えられていない。すでにこの時点では、「陰部の露出=わいせつ行為」という理解が、判例上ほぼ固まっていると評価することができよう。

 なお、弁護人はこの点に関して、わいせつ行為と評価するためには、「自ら性欲的興奮を求めての性的所作」がなければならないとする、興味深い見解を示している。仮にこの見解が正しいとすれば、ストリップ・ショーの演者の場合、自ら性的興奮を求めていることは稀であろうから、その多くがわいせつ行為から外れることになる。

 しかし、こうした見解は実際には採用し難いであろう。というのも、例えば公園で、通行人に単に嫌がらせをする目的で自らの陰部を見せつけた場合に、「性的興奮を求めていたわけではない」という言い分を認めて、公然わいせつ罪の成立を否定する判断は支持を得にくいと考えられるためである。理論的にも、本罪の成否の判断に際して重要なのが、わいせつ行為による社会への悪影響の有無である以上、行為者の主観的な目的や感情を過度に重視することは、正当化が困難であるように思われる。

おわりに

 以上で見たように、裁判所はこれまで、ストリップ・ショーがわいせつ行為に当たることの具体的な根拠を一度も示していない。多くは、「花月劇場事件」(【1】事件)を初めとする過去の判例に依拠して、陰部の露出がわいせつ行為に当たるという形式的な説明をするにとどまっている。しかし、すでに見たように、その「花月劇場事件」で最高裁は、わいせつ行為に当たるという結論以外は、何も述べていないのである。

 ストリップのわいせつ性が争われた裁判は、昭和30年の【5】事件以降、姿を現さなくなる。これは、ストリップのわいせつ性が判例上確立した結果、摘発された劇場側が、積極的にこれを裁判で争わなくなったためであると推測できる。恐らく、多くのケースは略式手続での処理がなされており、そもそも正式裁判に移行することはほとんど皆無であったのではないだろうか。

  いずれにせよ、ストリップ・ショーにわいせつ性を認めた上記の判例は、どれも確固たる根拠を含むものではない。したがって、これらを「不動の前提」のように取り扱うべきではないであろう。とりわけ、「わいせつ」性の具体的な評価の在り方について議論が進展し、社会の感覚も当時とは大きく変わった現在において、以上の判例の先例的価値は大幅に減殺されていると考えるのが、むしろ素直であるように思われる。