「性風俗業は不支給」のロジック?

1.はじめに

 新型コロナウィルスの感染拡大という異常事態は、平時には埋もれていた様々な社会の歪みを鮮明に浮き彫りにする。性風俗差別の問題もその一つである。

 最初の事件は、日本においてコロナの感染が拡大し始めた当初の、夜間への外出自粛要請などが出されるようになった4月の初頭に起きた。厚労省が、コロナの影響による一斉休校の影響で休職した保護者を支援する制度を設けたのだが、そこで、風俗営業の関係者などが支給の対象外とされたのである。これに対しては、大手新聞社などのメディアやSNSから「職業差別である」「命を選別するのか」といった批判が殺到し、最初は「取扱いを変える考えはない」としていた加藤前厚労相も一転して、4月7日には、風俗業の関係者も支給の対象とするとの表明を行った。これを受けて、「支給要領」の不支給要件から、風俗業関係者が除外されるに至り、問題は一件落着したかのように見えた。

 しかし、続いてスタートした「持続化給付金」や「家賃支援給付金」といった制度において、またしても性風俗産業は支援の対象から除外された。こうした取扱いについて、国会で理由を問われた梶山経産相は、「社会通念上、公的資金による支援対象とすることに国民の理解が得られにくいといった考えのもとに、これまで一貫して国の補助制度の対象とされてこなかったことを踏襲し、対象外としている」との答弁をしているが、あからさまな職業差別を正当化する根拠として、十分に納得のできる説明とはいえるかは疑わしい。むしろ、無批判な前例踏襲主義と「国民」への責任転嫁により、説明責任を回避しているような印象さえ与えるものであり、憤りを感じる者も少なくないであろう。

 もっとも、憤ってばかりいて何か問題が解消するわけではない。問題を解消するためには、「不支給」という決断を導いた公権力側のロジックを整理・分析し、これに対抗するための手立てを冷静に考えていく必要がある。そこで、本記事ではその予備的検討として、今回の「不支給」問題の概要を示したうえで、あえて行政側の視点に立ち、「不支給」の判断を支持しうる論理として、どのようなものがありうるかを考察したい。

2.何が問題となっているか

 「持続化給付金」や「家賃支援給付金」といった制度はいずれも、新型コロナウィルスの影響により経済的な打撃を受けた事業者の支援を目的として国が設けたものであり、中小企業や小規模事業者、フリーランスを含む個人事業者などが幅広く支援の対象とされているが、性風俗業は明示的に対象外とされている。

 持続化給付金の給付要件について、所轄官庁である経済産業省の定めた「持続化給付金給付規程」の8条3号によれば、風営法に規定する「性風俗関連特殊営業」を行う事業者については、給付金を給付しないとされる。「性風俗関連特殊営業」とは、本ブログですでに説明したとおり、ソープランド、ラブホテル、さらにはストリップ劇場も含む、いわゆる性風俗業を指す。同条ではほかにも、政治団体(4号)や宗教団体(5号)が支援対象外とされているが、これらの団体への不支給は、公権力による経済的支援が適切でないという特別な理由によるものであろう。数ある産業の中で、性風俗業だけが狙い撃ちで不支給とされているのである。

 ただし、持続化給付金や家賃支援給付金のいずれについても、性風俗業の届出を行った事業主は支援対象外であるものの、性風俗店で「個人事業主」として働く人は支援対象とされている。セックスワーカーの中には、性風俗店の従業員としてではなく、店から業務委託を受ける形で、個人事業主として働く人が少なくないが、こうした人達は、支援の対象となりうる。

 とはいえ、新型コロナウィルスの打撃を受けているのは、風俗店の経営者も同様であり、その経営が成り立たなくなれば、結局のところ多くの従業員やセックスワーカーは行き場を失うことになる。性風俗業だけを切り捨てることの合理性と正当性が厳しく問われなければならない。

 この問題をめぐっては、すでに関西地方のデリヘル経営者が、性風俗業の事業者だけを給付の対象外とするのは職業差別であり、憲法の定める法の平等に反するとして、国を相手取った訴訟を提起している。憲法学者の木村草太がコメントするように、本訴訟は、性風俗関連の給付除外について、公権力の側に「正式な説明をさせるという1点だけでも、意味のある訴訟」(なぜ、風俗業は持続化給付金の対象外?事業者が国を提訴。 憲法学者に聞く訴訟の意義とポイント(BuzzFeed Japan) - Yahoo!ニュース)であり、今後の動向にも注目を要するところである。

3.性風俗除外のロジック?

 それでは、「性風俗は不支給」を正当化する公権力の側のロジックとして、どのようなものが想定されるのだろうか。

 まず考えられるのは、性風俗業は、なくなるならそれに越したことはない本来的に不健全な産業であり、公的な資金を投じて、その継続や再起を支援するのには相応しくないという言い分であろう。国側が、ここまであからさまに職業差別的な主張を展開するかは現時点で不明だが、「それが国民の社会通念である」といったように、いわば国民に責任をなすりつけるような形で、根拠に盛り込んでくる可能性は高いように思われる(冒頭の梶山経産相のコメントも参照)。

 これに対しては、性風俗の営業を国が正式に認めている以上、通らない理屈ではないか、という批判がなされることがある。しかし、ここで注意が必要なのは、少なくとも性風俗営業について、国が「許可」を与える(た)という制度や事実は存在しない、ということである。風営法は、性風俗営業の「届出」による営業を認めているだけであり、「許可」制度は採用していない。

 細かい言葉の問題にすぎないように思われるかもしれないが、この点は公権力側のロジックを考えるうえで、重要なポイントである。これもすでに本ブログで詳説したところだが、あえて「届出」制が採られていることの背景には、性風俗が不健全な産業であり、公権力による「許可」に馴染まない、かといって自由にやられては余計に社会に迷惑をかけるため、行政が厳しく監視しておかなければならない、という前提理解がある。まさに、「なくなるならそれに越したことはない」という発想のもとに成り立っているのである。

 このように、風営法の中に「表現」された前提理解が、これまでの日本社会の中で、明示的に攻撃の対象とされ、拒絶されたという社会的・政治的事実がない限り、法を運用する公権力の側としては、これと整合的な政策決定を行う必要がある、というロジックは、少なくとも理屈の上では成り立ちうるであろう。

 また、不支給に反対する論の中には、セックスワーカーの多くは、経済的に困窮し、やむなく性風俗店で働く者であり、そうした存在を支援から外すことは、その生存そのものを脅かすことに等しいとするものもある。しかし、これに対しては、個人の生活水準をいかに保障するかという問題と、どのような事業を支援するかという持続化給付金等の制度とは、分けて考えるべきである、という反論が考えられる。

 確かに、当初問題となったような、休職した保護者の生活資金の援助の必要は、性風俗従事者かどうかとは無関係に生じるものであり、そこに区別の合理的理由を見出すことは困難である。これに対して、持続化給付金において問題となっているのは、性風俗業という産業の将来の「持続化」を、公的な資金を通じて支援すべきかどうかという問題であり、ここでは、「支援に値する産業かどうか」という、産業自体の性質に着目する必要がある。先に見たような、性風俗産業を本来的に不健全であるとみなす法的位置づけを前提とする限り、この点は否定的に解さざるを得ない。ましてや、「経済的困窮によりやむなく働く」者が多いような業種であれば、なおさら支援の対象とするわけにはいかず、同じお金で、より「健全」な別の労働環境を拡充すべき、ということになろう。

 さらに、法理論的には、今回の不支給が、「法律」として定められているわけではなく、あくまでも、持続化給付金制度を所管する経済産業省が定めた、行政上の基準にすぎないことも重要である。もし法律の形で定めるのであれば、上述したような、性風俗を「悪」とする社会通念が現存するかどうかを議論し、性風俗業を一律に不支給とすることの正当性・合理性を慎重に精査する必要がある。こうした精査を怠って、立法に至れば、「国会の怠慢により不平等な法律を作った」との非難を免れないであろう。

 しかし、今回のように、一行政機関が給付基準を設定するという場合、できることは自ずから限られてくる。長らくにわたり、法の運用の前提理解とされてきた、性風俗業の位置づけを、一行政機関の一存で勝手に書き換えるわけにはいかない。ここに、「前例踏襲」の素地がある。本記事の冒頭で、梶山経産相の答弁を「無批判な前例踏襲主義」と表現したが、前例をひっくり返すだけの材料のない段階で、これを要求するのは、ある意味無理な注文ともいえる。

 以上のように、「なくなるならそれに越したことはない」性風俗産業につき、こうした前提理解(社会通念)の明示的な変更がない現時点で、これまでの前例を踏襲し、支援の対象から除外した判断は、少なくとも行政の裁量を逸脱・濫用した違法なものとはいえない、というロジックが、想定されるであろう。

4.おわりに

 こうしたロジック自体は(個人的な憤りはともかく)法律論として、全くナンセンスであるとまではいえない。根本的な問題はやはり、こうしたロジックの出発点とされる、性産業の社会的・法的位置づけに存する。性産業の位置づけを「グレー」なままにし、なんとなく問題を先送りにしてきたツケが、こういう非常事態において現実化する。残酷なのは、先送りにしてきた人間と、それによりツケを払わされる当事者が一致しないことである。これほどの不正義はない。もはや、これ以上の議論の先送りは許されないであろう。

 最後に、この「不支給」をめぐる世間からの批判として、貧困に苦しむセックスワーカーの悲惨さを強調しようとする声もしばしば見受けられるが、先に見たように、こうした問題提起の仕方は、性産業に対する偏見や差別を解消するための方法として必ずしも効果的とはいえないように思われる。確かに、そうした状況に苦しむセックスワーカーの存在を否定することはできないし、その労働や環境の改善をいかに図るかは、大きな課題である。しかし、「セックスワーカー=可哀想な人たち」という一方的なスティグマは、「まさにセックスワーカーに対する社会的排除であり、セックスワーカーイデオロギー的利用」(SWASH編『セックスワークスタディーズ』(日本評論社、2018年)34頁〔要友紀子〕)に他ならない。問題の矮小化に陥らないような、多面的な検討が不可欠である。