「公然わいせつ罪」成立のロジックを追う

 1.はじめに

 今回は、ストリップと最も根深い関係にある「公然わいせつ罪」について、その成立がいかなるロジックにより認められてきたのかを検討する。言うまでもなく、ストリップ劇場の摘発において最も頻繁に持ち出されるのが、この「公然わいせつ罪」の規定である。日本の刑法174条は次のように規定している。

刑法174条 公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役もしくは30万円以下の罰金または拘留もしくは科料に処する。 *1

  古くより最高裁判所は、ストリップ・ショーに公然わいせつ罪が成立することを認めてきた*2。学界においても、通説はこの結論を支持しており*3、異論はほとんど見られない。それゆえ、現在でも、「公然わいせつ罪」の規定を用いた摘発が続いており*4、劇場関係者は相変わらずその危険と隣り合わせにある。

 しかし、ストリップ・ショーに本罪が成立するという理解が本当に正しいものであるかは、大いに疑う余地がある。この疑問については、次回以降に詳しく述べることにして、今回は、公然わいせつ罪の成立を認めてきた判例・通説のロジックを確認することにしよう。

 公然わいせつ罪の成立要件は大きく分けて、①「公然」性と②「わいせつな行為」に整理することができる。そこで、ストリップ・ショーがこの2つの要件を充足するかどうかが問題となる。

2.「公然」性について

 まず、ストリップ・ショーは「公然」性を満たしているといえるだろうか。本稿では、多数の観客を予定している「大規模劇場」と、少数の観客のみを予定している「小規模劇場」とに区別して、以下それぞれ検討を加える。

(1)大規模劇場の場合

 ストリップ劇場の中には、特に週末、多数の客が来訪する場所も多い。例えば、日本最大級の劇場である「浅草ロック座」は、129席もの客席を有しているとされ*5、時には、立ち見客が出るほどの賑わいも見せる。このような人数の多さを根拠として、「公然」性を認めるという論理がまず考えられるだろう。

 これに対して、読者の中には、次のように考えた人もいるのではないだろうか。すなわち、「公然」といえるためには、不特定多数の人の存在が必要であるところ、劇場内は、道路や公園などと異なり、鑑賞のために集まった客やファンしかいないはずであり、「不特定」多数の人がいるわけではないのだから、「公然」性は認められないのではないか、と。

 しかし、「多数」の観客を予定している大規模劇場について、裁判所が「公然」性を否定することはまず考えられない。なぜなら、最高裁判例によれば、「公然」とは、「不特定又は多数の人が認識できる状態をいう」とされているからである*6。不特定「かつ」多数ではなく、不特定「又は」多数とされている点が、ここでのポイントである。すなわち、「多数」であるとさえ認められれば、「不特定」であることは不要と解されているのである*7。この定義に従えば、「公然」性が否定されるのは、「特定かつ少数」の場合に限られることになる。

 以上のことから、少なくとも大規模劇場については「多数」の観客の存在が予定されているため、「特定」性の検討を待つまでもなく、当然に「公然」性が認められることになる。

(2)小規模劇場の場合

 それでは、少数の観客しか予定されていない小規模の劇場はどうであろうか。例えば、静岡県熱海市にある「熱海銀座劇場」などは、もともとスペースが狭いことからそれほど多くの観客の収容を予定していない。さらに、最近では観光客の減少の影響もあり、各公演における観客者数は多くてもせいぜい10名程度である。

 このような劇場が「特定かつ少数」の観客による鑑賞しか予定していないといえれば、上述した判例の立場を踏まえても、「公然」性を否定することができそうである。しかし、このような見込みは次の2つの理由から頓挫してしまう可能性が高い。

 第1に、そもそも裁判所が「10名程度」を「少数」と判断する保障はどこにもない。何名をもって「多数」に該当するかは、法律の条文に明確に書かれているわけではなく、裁判官の解釈に委ねられている*8。したがって、「10名程度」が「多数」に該当すると判断されれば、大規模劇場について述べたのと同じ理由で、「公然」性が肯定されることになる。

 第2に、裁判所がストリップの観客について「特定」性を認めるかどうかも、実はかなり疑わしい。確かに、ショーを楽しむために集った客という意味では「特定」しているという、前述のような考え方も成り立ちうる。しかし、これに対しては、結果的に特定・少数の観を呈する場合であっても、「不特定・多数の者を勧誘した結果、勧誘によつて集まつた者の前で」ショーを披露する場合には、「もともと不特定または多数の者が認識しうる可能性はあつたわけであるから、やはり公然性の要件をみたす」*9という反論が提起されている。現に、最高裁も、不特定多数の人から勧誘などを通じて観客となった者が特定少数であった場合には「公然」にあたるとしているのである*10

 看板によるアピールや、SNSでの広報や宣伝活動を含めれば、「勧誘」をおよそ行っていない劇場など存在しないであろうから、このロジックに従えば、事実上全ての劇場について、「不特定」性、ひいては「公然」性が認められることになる。

(3)小 括

 結局のところ、「公然」を「不特定又は多数の人が認識できる状態」とする定義と、勧誘により「不特定」性を認めるという解釈との組み合わせにより、多数の観客の来場を予定している「大規模劇場」はもちろんのこと、少数の観客しか予定していないような「小規模劇場」についても、広く「公然」性が認められる。

3.「わいせつな行為」について

  さらに、判例・通説は、ストリップ・ショーにおける踊り子の演技が「わいせつな行為」に当たることも認めてきた。

 まず、わいせつ行為の定義から確認したい。本条における「わいせつ」の概念について最高裁の判断は未だ示されていないが、わいせつ物頒布等罪(刑法175条)におけるわいせつな文書、図画の概念については「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」をいうとする判例がある*11

 学説の多くは、この定義がほぼそのまま公然わいせつ罪にいう「わいせつ」概念に当てはまると理解している*12。すなわち、本罪のわいせつ行為とは、①行為者又はその他の者の性欲を刺激・興奮・満足させる動作であって、②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するものをいうと考えられているのである*13

 これは、いわゆる「わいせつ3要素説」を呼ばれる定義であるが、読者の中には「なんて曖昧で不明確な定義なのだ」と驚かれた方もいるかもしれない。この定義の良し悪しについては、議論の余地が大いにあるが、今回はその問題をひとまず置いておくことにしよう。

 それでは、この定義を前提とした場合、ストリップ・ショーに「わいせつ」性が認められるのだろうか。

 確かに、かつてのストリップ劇場では、出演者のカップルが本番行為を行う「白黒ショー」や、客と踊り子が舞台上で性交を行う「生板ショー」が出し物とされており、少なくともこうしたショーの性的性質は極めて強度であったと言える。しかし、現在のストリップ劇場で行われているのは、そのほとんどが、ダンスパフォーマンス等を中心とするエンターテインメント性の高いショーである。こうしたショーのどこに「わいせつ」性を認めるというのであろうか。

 判例・通説は、どうやら「性器の露出」の有無を重視しているようである。代表的な注釈書にも、「わいせつ行為の基準となるのは、公の場所での陰部の露出である」*14、「性器を露出する行為は、原則としてわいせつな行為に該当する」*15、「わいせつ行為の典型例は性行為または性器の露出行為である」*16等と明記されている。公衆浴場における入浴のように、合理的な目的や必要性があると認められない場合には、「性器の露出」により自動的に上記の3要素が認められると理解されているのであろう*17。こうして、性器の露出を伴うショーは、「わいせつ行為」に当たるという結論が導かれることになる。

 これに対して、読者の中には、ストリップ・ショーを観て、性的羞恥心を害されたことはない、と反論される方も多いのではないだろうか。しかし、少なくとも通説によれば、このこと自体は「わいせつ」性の認定の妨げにはならないとされる。なぜなら、「当該行為が正常な性的羞恥心を害するものか否か、あるいは善良な性的道義観念に反するものか否かは、その時代における平均的な通常人あるいは一般人を基準として判断されるべき事柄であ」り、「行為者自身やこれを見た者が現実に性的羞恥心を害されたか否かによって判断されるべき事柄ではない」*18と考えられているからである。

 ある注釈書では、次のように明確に述べられている。

「いわゆるストリップショーの観客は、性的な満足・快楽を得ようとしてそのようなショーの観覧者となっているのであるから、観客がそのようなショーを見て羞恥の情あるいは嫌悪の情を抱くことはほとんど希であると考えられるが、そのこと自体は、当該行為が『わいせつな行為』に該当するか否かとは関係がない」*19

 この引用部分については、そもそもストリップショーの観客が、性的な満足・快楽のためにショーを鑑賞しているとする前提に重大な疑問があるが、そのことは置いておくことにしよう。いずれにせよ、通説によれば、「わいせつ」性の判断にとり、ストリップ客の感情は重要ではなく、あくまでも「平均的な通常人あるいは一般人」が基準とされることになる。

 この「平均的な通常人あるいは一般人」がどのような者であるのかは必ずしも明らかではない。しかし、少なくとも、ストリップショーを単なる「性的な満足・快楽」のためのショーであると信じて疑わないような、無知と偏見に満ちた「一般人」を基準とすれば、上記の3要素は満たされうるであろう。

4.おわりに

 今回は、判例・通説がストリップ・ショーに「公然わいせつ罪」の成立を認めるロジックについて確認を加えた。

 判例・通説によれば、「公然」とは不特定又は多数の人が認識できる状態」をいうとされ、さらに、客の勧誘により「不特定」性が満たされることから、劇場に規模の大小に関わらず、「公然」性を広く認めうることが明らかとなった。

 さらに、判例・通説によれば、ショーの中で「性器の露出」があれば原則として「わいせつ」性も肯定される。「わいせつ」性の判断基準は、「平均的な通常人あるいは一般人」に求められるため、現実の観客が性的羞恥心や嫌悪の情を抱くかどうかは無関係とされる。

 当然ながら、以上の判例・通説のロジックには、多くの疑問もありうる。

 例えば、「公然」性を広く認めることは、露出狂などの取締りを念頭に置けば理解できるが*20、観客が自ら望んで見に来ているストリップ・ショーについて、同じように「公然」性を認めることが果たして妥当なのだろうか。また、「性器の露出」があればほぼ自動的に「わいせつ」性を認めるというロジックには大きな飛躍があるのではないか。さらに、「平均的な通常人あるいは一般人」とは誰なのか。現在のストリップ劇場の実態を正しく知る「一般人」なのか、あるいは、無知と偏見に満ちた「一般人」なのか、等である。

 こうした疑問の多くは、そもそも「公然わいせつ罪」の規定が何のために存在するのか、という問いと密接に関連している。その意味で、我々が直面している問題を真に解決するためには、本罪の存在意義を問い直すことが不可欠と言える。

*1:なお、軽犯罪法1条20号は、「公衆の目に触れるような場所におけるしり、ももその他の身体の一部の露出」を罰している。ストリップ・ショーに対する本規定の適用可能性についても議論の余地があるが、本稿では割愛する。

*2:最判昭和25年11月21日刑集4巻11号2355頁、最判昭和26年5月10日刑集5巻6号1026頁、最決昭和30年7月1日刑集9巻9号1769頁等。

*3:例えば、大谷實『刑法講義各論〔新版第4補訂版〕』(2015年)520頁、前田雅英『刑法各論講義〔第6版〕』(2015年)413頁等。

*4:近時の東洋ショー劇場の摘発においても、従業員や踊り子らに公然わいせつ罪が適用されている(https://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/53099/)。

*5:ロック座 - Wikipediaの記述を参照した。

*6:最決昭和32年5月22日刑集11巻5号1526頁。

*7:学説の多くも、判例の理解を支持している(大塚仁『刑法概説(各論)〔第3版増補版〕』(2005年)515頁、山口厚『刑法各論〔第2版〕』(2010年)507頁、高橋則夫『刑法各論〔第2版〕』(2014年)561頁、大谷・前掲注(3)519頁、前田・前掲注(3)413頁、井田良『講義刑法学・各論』(2016年)495頁等)。

*8:なお、静岡地沼津支判昭和42年6月24日下刑集9巻6号851頁は「4名」を少数としている。

*9:団藤重光編『注釈刑法(4)』(1965年)279頁〔団藤重光〕。

*10:最決昭和31年3月6日裁判集刑事112号601頁。なお、この場合に行為の反復(意思)が要求されるとするのは、中森喜彦『刑法各論〔第4版〕』(2015年)246頁。

*11:最判昭和26年5月10日刑集5巻6号1026頁=サンデー娯楽事件。

*12:団藤・前掲注(9)280頁以下、大塚仁=河上和雄=中山善房=古田佑紀『大コンメンタール刑法 第9巻〔第3版〕』(2013年)10頁〔梶木壽=河村博〕。

*13:下級審の裁判例でこのような定義を採用するものとして、東京高判昭和27年12月18日高集5巻12号2314頁。

*14:西田典之山口厚=佐伯仁志『注釈刑法 第2巻』(2016年)602頁〔和田俊憲〕。

*15:梶木=河村・前掲注(12)13頁。

*16:浅田和茂=井田良『新基本法コンメンタール 刑法』(2017年)379頁〔門田成人〕。

*17:これに対して、乳房の露出は必ずしもわいせつな行為とはいえないとされている(大塚・前掲注(7)516頁、高橋・前掲注(7)562頁等)。

*18:梶木=河村・前掲注(12)25頁。

*19:梶木=河村・前掲注(12)25頁。

*20:仮に、「公然」を「不特定かつ多数」と定義してしまうと、少数しか利用を予定していない場所(例えば、狭い公衆トイレ)での露出狂に、本罪が成立しないという帰結が導かれてしまうが、これは明らかに不当であろう。